前島密
前島密は、郵便のしくみを作った人です。
前島密は、1835年1月7日、そのころの津有村下池部(=今の下池部 上野あたり)に生まれました。小さいころは医者になろうと考えていました。そのために、おじさんの家で手伝いをしたり塾に入ったりして、一生懸命勉強しました。江戸(=今の東京)に出てきたのも、医学をもっと勉強するためだったのです。江戸では医者の家に薬室生(やくしつせい)として住みこみ、薬の調合や病人の世話の手伝いなどをしながら、医学の勉強にはげんでいました。
密が18歳の時、アメリカ海軍の提督(ていとく)ペリーが4せきの軍艦(ぐんかん)を連れて浦賀に来航しました。密は、この様子を見て心をとどろかせ、これからの日本の国のことを思うと、じっとしていられないような気持ちになりました。じっとして本を読んでいるのではなく、国を守る方法を考えなければならないと考えたのです。
そこで密は旅に出ました。日本の国の、海岸の様子を確かめるためです。江戸より西の海岸沿いの国々のほとんどをくまなく回った大旅行でした。この旅行を終えて、密は自分がもっともっと勉強しなければならないことに気づいたのでした。特に英語の勉強が大事だと思いました。
23歳の時、幕府の海軍操練所で勉強していた密は、函館開成所に行くことを決めました。ここではアメリカ商船の船長を呼んで航海術を学ぶことができたので、密は夢中になって学びました。実際に船を動かすために、函館丸での航海もしました。佐渡や隠岐、下関、長崎などで北海道産のこんぶを売って資金にし、7ヶ月ほどの航海でした。
ちょうどそのころ、開国を主張していた井伊大老が、江戸城の桜田門外で水戸の浪士に暗殺されるというできごとが起きました。密は心を動かされ、その年の12月に江戸へ帰りましたが、特別な計画があるわけではありませんでした。
それからしばらくして、ロシアの軍艦が対馬へやってくるというできごとが起きました。ロシアはいきなり対馬を占領してしまおうとしたのです。幕府はじっとしていることができなくなりました。しかし、幕府の軍艦でロシアの軍艦を追い払うほどの力はありません。
そこで、幕府は、話し合いのために外国奉行を対馬にはけんすることにしました。密もこれについて行きました。しかし、この一行を見た密は、日本のこれからがますます心配になりました。幕府は、行列を飾ったり遠回りをしたりすることで到着を遅らせ、ロシア軍艦との話し合いを避けようとしていたのです。思い通り、一行がついたころにはロシアの軍艦は自分の国へ帰った後でした。
密はこのあと、一緒に江戸には帰りませんでした。長崎に残って英語を学んだり、鹿児島の開成学校で教えを受けたりしていました。薩摩藩(=鹿児島)では、西郷隆盛や大久保利通らと話をすることもできました。しかしここで密は、薩摩藩が幕府を打ち滅ぼそうと計画していることが分かったのです。密は日本の国があぶなくなると思い、それを幕府に知らせるために1年ほどで江戸に帰ってきました。江戸に落ち着いた密は、幕府の開成所の数学の先生になりました。この年に、幕府の将軍、徳川慶喜は、大政を京都の朝廷に奉還しました。
明治2年、密は新しい政府の民部省に勤めることになりました。密はここで、渋沢栄一や大隈重信、大久保利通、伊藤博文などと出会いました。
しばらくして密は、駅逓司(えきていし)という役所の駅逓権正(えきていごんのかみ)を命じられました。駅逓司というのは、政府の役人の旅行や、手紙や品物などを送る仕事をしているところです。密は前からこの仕事に関心をもっていたので、駅逓権正になった日から、日本の国の通信を新しく変えていくことで頭がいっぱいになっていました。以前に何度も大旅行をしたり江戸から離れたところに住んでいた時、日本の国内の通信の不便なことを知っていたからです。ひとつは、手紙のやりとりに時間がかかることです。次に、急ぎの用の時に知らせる方法がないことです。3つ目に、手紙がたしかに相手に届くかどうか分からないことです。
ある日、一通の書類がまわってきました。それは、東京〜京都の間で政府の手紙を運ぶ金額について書いてありました。これを見て、密はこう考えました。
「しばらくは、手紙の通信は東京から大阪までの東海道だけにしよう。そして毎日一回、東京と大阪から手紙を送り出すことにする。それには、政府のものだけでなく、民間の手紙もいっしょに送り出す。そうすれば、東海道沿いの人たちも喜んで利用するだろう。そして手紙を送るきんがくは、政府も民間も同じにする。そうすれば、月々の収入は1500両を超えることはたしかである。」
そう思いついた密は、その日からほとんど眠らずにこの考えをまとめました。いろいろなことを調べたり計画を立てたりしました。決めなければならないことがいくつかありました。まず、「郵便」や「切手」「ポスト」などの名前を決めました。次に、東京と大阪間の郵便物の発着時刻を決めました。それから、郵便の料金をどうするか考えました。
その翌年、密は、進んだ郵便制度の仕組みを自分の目で確かめるためにイギリスへ行き、たくさんのことを学んで帰ってきました。
イギリスから帰ってくると、これまでの飛脚(ひきゃく)の制度を廃止しました。その後郵便の仕事は長崎まで広げられました。
さらに、密にはどうしても解決したいことがありました。それは外国郵便のことです。それまで日本は、外国との郵便の取り決めをしていなかったので、せっかく日本に届いた手紙を本国に送り返すことしかできませんでした。密はこれが悔しくて仕方ありませんでした。
密はねばり強く努力しました。そして明治8年、ついにアメリカとの郵便の取り決めがまとまりました。日本の人たちが、日本の切手をはって外国へ手紙を出すことができるようになったのです。外国郵便の開業式の中で、密は「わが菊花、今日よりその秀麗なる光輝を世界の人民に映射せん。」とよろこびの言葉をのべました。そのあとのお祝いの会は、いろいろな国のえらい人を招いてとてもにぎやかに開かれました。
役所をやめることになった密は、東京専門学校(=今の早稲田大学)の校長になったり、もう一度役所に戻って郵便をさらに活発にする仕事をしたりしました。北越鉄道(直江津から新潟までの鉄道)を作るためにも努力しました。
こうした功績が認められ、明治35年には男爵の位がおくられました。
そして、大正8年4月27日、84歳で亡くなりました。